阪神淡路大震災・・あれから30年
阪神淡路大震災から30年・・今日は当時の悲惨さを思い出す報道がたくさん流れている。
私も深く関わったこの震災を、昨日のことのように思い出している。
30年前のあの日、会社に出勤して初めて大震災の報道を知った。 TVは大変な被害を報じていた。
間もなくして、私の部門で設計して某スーパーに納入した神戸・芦屋の配送設備が停止していて、救援物資が配送できないとの連絡があった。
客先から「被災者に救援物資を支援するため、至急復旧してほしい」と要請があった。
この設備は、コンピユーター制御でレール上を走る台車に次々に届く物資を載せ、センター内を走り回って、配送先に仕分ける当時は最先端の自動仕分け設備機械である。
復旧は本来なら設備保守部門が担当するが、被害のでた多くの納入設備から復旧要請があって、担当者が足りないため設計部門にお鉢が回ってきた。
私は早速、機械・電気・コンピュータ制御などの担当者数名をを伴って、昼過ぎに東京から現地に向かった。
現地には入るのさえも大変だった。 途中で止まった新幹線を列車に乗り継いで、大阪まで行き、大阪からはレンタカーで向かったが、道が遮断されていたり、検問所があったりした。 事情を話して通してもらい、やっと現地に到着したのは真夜中だった。
到着後すぐにセンター内に入ったら、30cm幅/2m深さの亀裂が縦横に走っていて、被害の重大さに驚いた。
早速納入した設備機器のチェックをしたが、幸い納入した設備は地面の亀裂をかろうじて免れていて、大きな影響がないようだった。
設備の損傷機器を調べ、復旧に必要な部品と作業員を本社に手配した。 その後は不眠不休で翌日も、点検や修理に費やした。
手配した部品と作業員が現地に到着したのは、その翌日だった。
復旧作業は夜までかかったが、一日で終えることが出来た。 関わった皆の努力のお陰だった。
客先は、寝る場所として会議室一つを空けて、そこに段ボールを敷き詰めてくれた。 布団や、飲み物は、配送センターに届いているものを集めてくれた。 食事は従業員のご家族がおにぎりやサンドゥイッチを差し入れてくれた。 客先の暖かい配慮は本当に有難かった。
復旧完了後は客先に立ち会っていただいて、恐る恐る試運転をした。 正常に稼働が可能なのを確認して、3日目には本格的に稼働することが出来た。
元々この設備は故障が多く、客先の評価は最悪だったが、この度の迅速な対応と復旧に、対策に詰めていた客先の役員からは驚きと感謝と労いの言葉を頂いた。
私は一人、稼働状況の最後の確認のために、翌日まで残った。
帰路は電車も止まっていて車も通行できず、歩いて大阪まで帰るしかなかった。 荷物はザックに詰めて背負って、倒壊した高速道路沿いを大阪まで歩いた。
倒れた家屋や、倒れた高速道路に半分顔を出しているバスや、つぶされた車など、来るときは真っ暗で見えなかった景色に、改めて震災の重大さを思った。
大阪にたどり着いて、大阪支社が手配してくれたホテルで、歯を磨きシャワーを浴びた時の気持ち良さは今でも思い出す。
私の会社生活の中でも、トップクラスの思い出の多い大仕事だった。
そして、震災の復旧に少しでもお役に立てたことは本当に良かったと思う。
< 掲載した写真は、当時私が撮影したものである >
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